first tuesday, Every day in marked Tokyo マークされた東京日常/1,november 2005
赤坂の文具屋でタグを買う。タグが記すもの。/tag:標識札、もつれ毛、紋切り型の引用語句、鬼ごっこ。
1,november 2005 16:00バックパックでさえも国際空輸ではタグを付けられ運ばれるのである。僕たちが、あなたが、過激に移動し越境し横断的であっても、平易に常にマーキングされ続けるのである。/T.Aそういえば北極圏に近いフィンランドでも四季があるということを思い出す。かつて南極大陸が南米とオーストラリア大陸と陸続きであった時代、つまり極還流が不在の時代、南極が温暖であったということを俄には信じ難いのと同様に、世界の距離の短縮以上に分断された世界境界が存在することを"TAG"は思い出させてくれる。/T.A興味深いのは文化と称されるものは一般的に横断的であり政治性に対峙するものとして機能していた時代があったということだ。では今はどうだろう。いかにもありきたりの事実をのべるならば「文化活動はまずは経済に支えられ、次には政治に保証される」ということだろう。こうした形式こそが「紋切り型の引用語句」、つまりは"TAG"の能動的な機能の本質なのだよね。東京には"TAG"をつけられた美意識が沢山あるように思える。これが本質かどうかは別にして、あるいは美しいかどうかは別にして。/T.AWednesday, Loitering like detour Tokyo 迂回的道草、東京/2,november 2005"TAG"をつきの審美はすなわち極めて意識された「近代」であるといえるかもしれない。例えば重森三玲の方丈を思い起こすに「江戸中期に廃れた芸術性の復興」がすなわち立石の伝統美の再現的再興ではなかったことを気に留めながら、この街の断片を微視することで容易にその確認出来ると思われた。/T.Aしかし一方で「断片の微視」がひとつの像を明らかにするに充分かというとどうもそうではなさそうである。巨大升のビルディングはそうした表象された「近代」を安易に象徴してしまういい例である。東京のひとつひとつの建物はやたらぴかぴか光るうえに、その総容積は桁外れに大きい。こんなカフカ的労働を思い起こさせる狂気じみた連続体の形成は少なくともNYを除けばここにしかないと思われる。ちなみにNYとの違いはといえば「かつて破壊を経験したことがあるかどうか」と「日常的に破壊してるかどうか」程度のものである。/T.Aであるがゆえになぜだか三角形に刈られ17世紀パーティア英国式庭園よろしく配置された、NTTビルの植え込みをみるに付け「なぜこんなんにしたんやろ」と疑問を禁じ得ない一方、近代的な美学から遠く離れたこの潔さと無頓着さにほっとしてしまう自分がいる。/T.A「断片の微視」がもたらすもの、或は徒歩の時間と遅々としたシーケンスの展開のなかに何かヒントがありそうだと思いたちここでひとつの仮説をたててみた。すなわちバリケードが迂回を余儀なくし、迂回路の数とその規模がゆがみを生む。その複雑性こそが都市としての"TAG"なのではないのか。 それは例えばこんな具合の散歩旅行である。「港区を出発し最短距離で新宿に抜けこと」この2点間には「赤坂御用地」と「新宿御苑」がある。「新宿御苑」は通り抜け可能だが、残念ながら皇族ではないぼくには「赤坂御用地」を横断することはできない。/T.Aこのゲームの結果は報告するまでもないだろう。地図を見ると街区を構成する幹線は殆どがゆがんでいるために基準を求めることが難しいことに気づく。そのため至る場所に「余分な場所」換言するならば文字通りの「void」が点在することとなる。東京はひどく複雑な街で均質とは云い難く全貌がつかみにくい。その突出しながら一方で原初的状況を置き去りにする様相こそがこの街の本性で、そしてそれはそれでやけに不格好で愛らしいと思う。迂回の快楽、そのこころは「道草」、つまり道楽なんだとここはひとつ勝手に満足しておきたい。/T.AThursday, A certain place and the holiday

某所休日/3,november 2005
駅でのひとの動きを観察していると都心に滞留する動きと同時に、郊外(臨海部など)に向かうベクトルが共存する。今日は文字通り「休日」である。そういえばウィークエンドの過ごし方は近年大きく変化したようだ。(ちなみに2005年11月3日、本日は木曜日ですが)日本の「戦後」が一段落し長く禁欲的労働に支配されていた時代が幕間に入ったということなのでしょう。1946年の11月3日、日本国憲法公布され「戦後」が始まったことを考えるに、(少し、大きく歪曲した"感想"をのべると)日本人が日本的であることを正式に捨て去った日であるのかもしれない。/T.A日本の政治も生活様式もある種のフィフティーズシンドロームというか、アメリカの物質文化(経済的には特需に基づく古典的な図式ですが)を模倣(させられた)すること、つまりは偽装(させられた)することで成り立っていたのは多くの場面で事実でしょう。だけど今でも多くの日本人が「日本的労働の報酬として繁栄築いた」というまっとうな戦後論にロマンティズムを持っているのもまた否定出来ない。そんなぼくたちや先達たちなのに週末だけは欧米流とはいかなかったのは、なんだか実は新しい日本人観(戦後に築かれた)を日本人自らつくりあげてきたのではないか、とダイバの人口浜で考えていました。/T.A場合によっては「ボーダー論」として週末文化を語る考え方もあるのかな。「トーキョーは国際都市です」とかっていいますが、「観光資源を押し売りする粗悪な文化志向」を思い起こさせいい気がしない。ただ90年代を境にして膨れ上がったのは確かなようだ。さて気になったので収益型図書館(つまり本屋)で調べてみたところ、東京23区の外国人登録者は約30万人、総人口の3.5%あたりらしい。また「港区サーベイブック1・港区の外国人」なる書籍を参照するとまるでSFのような結論から問題提起をしており興味深い。(確かにすこしばかばかしい気もした)「港区は日本の住宅地ではなくなるかもしれない。何故ならば、残りの8割の日本人の多くも海外滞在を経験したような国際的感覚を身につけた人達になると想像されるからである。 多分、パリの高級住宅地の16区やロンドンのケンジントン、ニューヨークのイーストサイドのような街になってくるであろう」とかって。。/T.Aさて日本人による日本人観とは異なるもうひとつのスタンス、それは在留(まあここではあえて在京としましょう)外国人の視点でしょう。東京人ビル・ハ−ジーは東京のことをビッグミカンと呼んだ。(勿論ニューヨークのビッグアップルに対して) その彼が発行するフリーペーパー  「Tokyo Weekender」について書かれたSusan Millington氏(69年〜76年在日英国大使婦人。SONY盛田昭夫、井深大氏など経営陣の英語秘書)の「外人たちの正しいウィークエンドの過ごし方」というコラムに印象深い言葉があった。「トーキョー、今私たちが住む街。でもどこかで、いつでも他からやってきた旅人、旅行者であることを忘れさせないまち。Tokyo Weekender は、その私たちにコミュニティーの感覚を与えてくれる。故郷の家から遠く離れた、もう一つのふるさとの地元新聞。この魅惑的な国へと開かれた窓、そして、多くの新しい経験へのドア」//なんて明快なんでしょう。この言葉は「かれらにはトーキョーは常時然として異境であり、ライフスタイルは様式への羨望であること」を思い出させてくれる。。/T.A大島弓子先生の「毎日が夏休み」をよむにつけ、「ウィークエンドなんていらない」とかって思いながら人生を過ごしてきたつけでしょうか、どうして毎日が夏休みじゃないの?そしてどうして(別の見方をすると)毎日が仕事のようなライフ歩んでいるのでしょうか。で、それじゃだめなわけ?ある意味ではそうした文化論的な枠組みから様式の早読みをする姿勢(カルチュラルスタディーズ的なものも含め)を疑う某所休日でした。そう、いい忘れてました。11月3日は「晴の特異日」でもあります、そして余談/昨年ジョージ・W・ブッシュがアメリカ合衆国大統領選挙に再選した日でもある。/T.A
Friday, The house of 1 hour, or history1時間の家、あるいは歴史/4,november 2005
杉本博司氏の展覧会は『End of Time』と冠されていた。正直これ以上のものを語ることは無理であることは明白で、さっそく水平線でもみながら瞑想にでも入らない限りは「ことば」で時間を語ること等そもそも不可能だと思われました。/T.Aこのいい加減に飽きてきたホテルのデスクでまさに夜の夜中に、「大きな時間」を扱い考えることは拷問に近く、そもそも滑稽さの極みと云わざるを得ない。しかしそれにも増して「住まいの場」ではないこの都市の一角でワンウィークをこの街のひとたちと共有する時間は残酷にも着実に横たわっているのである。そうであるならば午前中目にした、皆川明氏の「1時間の家(ONE HOUR HOUSE)」という仮説に惹かれ、その明快さに酷く恋い焦がれるぼくがあったのも納得できるというものだ。なぜならば彼はこんな風に諭すからである。「ものが生まれる過程には多くの時間を必要とするが、時間は価値を決める絶対的な条件ではない(A lot of time is necessary in the course giving birth to new things, but time is not an absolute condition to determine their value.)」ものをつくる過程には時計で計れない様々な時間が含まれている/という意のこのことばの裏を取る気にはなぜだかなれない。/T.Aよくよく考えてみると都市の時間はよくも悪くも新陳代謝のサイクルや消尽のスピード、モードの移り変わり、電車の過密ダイヤ(つまりは動きに応じた輸送力)、取引の数など量計や速度が基準となっているように思う。地図の見方が複双的なのと同じで、おそらく時間はそのものの解釈を可能にするリテラシーが存在し、それらが都市を語る形式となっているのではないだろうか。つまりこうした基準が延用されることで「ことば」による都市像が結像され、更に転用されることで価値(特に経済活動における)が捏造されているのではないか。これもひとつの"TAG"なのではないのでしょうか。なんだか「トーキョー幻想」はこんなことで説明がついてしまいそう。/T.Aそういえばぼくたちが普段過ごしている時間の最中で、唯一クリアになる場面とは「我に返る」という引き戻しがあって可能になっているように思います。その意では「過ごしている時間の過中」では「何もそこに無い」のであって、こうした過程をそのものを問う意味すら無意味なのだと思われる。例えば"継続中"の現場に出会すとなぜか甘美な気分にさせられるのはもしかするとそうした経緯によるのかもしれませんね。/T.Aさてぼくたちは歴史を語ることばをたくさん持っているように思われてますが、どうもそうではなさそうです。ひとつ思うのは"継続中"であること"過程をそのものを問う意味すら無意味"な状態が常時、すなわち「日常」なのであるということです。確かに「1時間の家(ONE HOUR HOUSE)」はなぜか逆説を語ってくれるようにおもえる。つまり東京には東京の「今この時点の」成立時間がある。でもその時間性が必ずしも東京の価値をつくったとは云えない。総じてみるとまず「今生きている」のだという状態があり、想起としての歴史は常にある種のフィクションだということです。こうして今日少しわかったこと。それは東京に資金が集中していて沢山の"継続中"の現場(つまり工事現場)があるなどといったことではなく、異境者としてのぼくにも東京の歴史は少しはみえるということでしょうか。杉本博司氏のことば、「はじめて海をみた人類のように水平線を凝視する」/東京日常にはふさわしいことばですね。/T.ASaturday, The sea, HOKUSAI, And Every day in Tokyo 海、北斎、そして東京日常/5,november 2005
水平線を凝視するために朝探しにいきました/T.Aここにきて正直悩みが増えたように思える。昨日ついには"継続中"などというベクトルをちらつかせてしまいましたから、"TAG"をつけるという小さな散歩が、レシとして読み替えられ、ついには雲水の修行のように振る舞わざるを得なくなってしまったこと、自業自得とはいえ少なからず後悔もしあっさり忘れ去ろうとしているとこです。これはややエキセントリックな説かもしれないが、おそらく「歩いた」からだと思う。つまり微視的な思考に呪われたおかげで、どちらかというとマクロアイに否定的な流れをつくったのではないかという省察です。/T.A御用地周辺の警備体勢を少しの間ぼくも彼らを監視しながら、また同時に以前書籍で見聞きした軍事衛星の画像分析官の解析方法の説明を思い起こしつつ、俯瞰についての論考などをいろいろ思い起こしてみた。多くの「東京論」もやはり大筋マクロアイに基づくものが多いということはまあわかる。でも微視的なアプローチを試みた瞬間になぜこうもある意味でフィジカルな解釈多様性に阻まれすごすご退散を余儀なくされ、一方で私小説的ロマンティスムに絡めとられ恥ずかしくなってしまうのか。こうなると実は微視性に基づく風景論なんかも実は問題があるのではないかと、少し憂鬱になっていたところなのです。/T.Aノートルダム寺院から見えるパリの街並をボードレールは「La Mer /海」に喩えて、同時期のF.メリヨンの版画作品にもその痕跡が見える。(「ファミリーロマンス」豊崎光一著 小沢書店/参照)19世紀のパリを海と称した視点は高台でした。比較はできませんが確かに六本木ヒルズの俯瞰模型や「東京スキャナー」、「GoogleEarth」にはある種の快楽があるように思える。支配欲なのでしょうか。(今は経済による支配なのですね)ただよく考えるとボードレールとメリヨンの「海」へのアプローチには多少差異があるように思える。気のせいかな。(ボードレールはノートルダムの尖塔から、メリヨンは同じ尖塔の怪物の合間からだけではなく、街角の視点からも記述してますね)これは予想ですが東京には高い建物は無数にあってどの建物からみても、平地と同じ状態が起こっているような気がするのです。もしくはおそらくそういう状態になっていくのでは…。/T.Aこうした諦念があるのは事実でしょう。だから鳥も犬の目に幻想を抱いてしまう。一種のディシプリンでしょう。まあ確かに括弧掛けの風景もやはりそうした視軸からでてきたわけですから。(やっぱ庭園なのかな)そういえばここ暫く「風景」をフラットに、"フラット"として語る文脈が多かったように思うのですがいつの間にかそれすらも淘汰され薄氷と化してしまったようす。"TAG"は風景に従属するだろうか?/T.Aそもそもそうした疑いからこの記述は生まれてきたのかもしれない。ひとの動きも建物の反射光も何かに関係づけないと説明出来ないからです。ちなみにこのダイアリーにはフェィクとしての"TAG"がつけられてる。それは言わずもがな「写真」である。想定では「写真」というよりは「インデックス」の役割を担わせたいというのが新幹線から富士山をみたときに思い至った発想で、何が写ってるのかはっきり見えないように、更に云えばはっきりみる必要がないとの判断でこんなミクロサイズにしたわけです。"TAG"そのものを探してるのだから、ここでの「写真」はアイコンにすぎないのだけど、勿論少なからず何らかの印象をうけるわけなので、センテンスと写真は同位に或は相互補完的にインプレッションを構成されうるのではと考えたのです。当然ぼくの視点を共有して欲しいなどとは思っておらず、というかそういう欺瞞はやめにしておいたほうがより真摯なのは云うまでもないことですが:ただカットは関係してます。それぞれのカットはすべて時間軸に並んでいます。デジタルカメラは撮影時に内容が確認出来ます。そのカットを確認し仮説を立て、次のカットを探すという(これも車中思いつきの)ルールを科してます。で、時間は入れてないのですね。何故か。正確に記述すればするほど正確に記述出来ないことが見えてくるから。ピンポイントの時間は記述出来ないに違いないと思う。(明かしてもなんらかわりないのでここにいたって助言しますが、語尾の言い回しがまちまちなのは近づいたり遠ざかったり/客観位置/することでパースペクティブをつけたい為で、いい加減なまじないを施したりしてるわけじゃないです)/T.Aランボー的に言い回すなら「"TAG"は他にある」です。
「パリの海」を今の東京に見出すことは可能でしょうか。なんとなく北斎画の中にヒントがあるような気がします。富士は変化します。北斎は変化(や動き)を描きます。(セザンヌのサントビクトワール山にも同じニュアンスがあるのですが)もしかすると「東京」も「海」のように光をざわつかせてるのかもしれないね。このウィークダイアリーは最初から1日足りません。ようはHappyMondayがないわけね。「富士」から始まった6日間のウィークダイアリーは、残りもう1日ともう1日の余白とともに北斎で終ると予告しておきます。あのやたらカーテンウオールぴかぴか光る東京のビルは決して醜悪ではないと思いました。おそらく日常がそうさせるのだと確信します。/T.ANextMonday, The life is elsewhere 人生はほかにある/6,november 2005
first sunday, Every day in continued Tokyo
継続される東京日常/29,october 2006
去年と同じ街の同じホテルから見える同じ風景でまた一週間。29,october 2006 16:00

午後遅く乗った新幹線の車中から外界をのぞき見ています。150分の間に空は徐々に曇り光が翳りつつ暮れていく様子が。このところ未来に楽観的であった気運が少し微妙な感じで陰り始めているように思う。それはニヒリズムやポストミレニアムとも異なる何か。高速で移動するハコモノに乗っていると少し不安な気持ちに曝されるということとそう無関係ではないように感じる。そういえば高速移動手段の確立と時制の統一がモダンの始まりでしたね。謂うまでもなくボクたちが生きる世界においてはこうした「ある種の性急さ」って代替価値を持っているし実際に交換可能なリアルな「レート」を内在してる。そして大体は何事も早ければ褒めてもらえるんだよね。遅延が評価(代替可能な価値のタグを与えられるという意味での)されるものってあるだろうか?、、否少なくともここ150年間はないな。給食食べるのが遅いコドモは教師から見えない批判を受けるし、反応が遅い精算機は酔っぱらいに蹴られる。/T.Aこの代替レートは貨幣にも換算できるけれども当然エネルギーにも換算できる。これを生体に置き換えることで気づくことがある。生体がエネルギーを生産するための代謝限界があることで運動のレギュレーションが限られ、燃焼のために必要とする有機物の量にも必然的に均衡点が決められることになる。それともう一つ、ある臨界を超えるとその逆が起こる。簡単に謂えば「お腹いっぱいになると動けなくなる」/ロケット技術におけるハイイフェンシー問題と同じことでしょうか。つまり高速で動くために必要な燃料は自重を過大にし相反関係にあるということ/ ボクたちの世界はインフラストラクチャーである高速交通網と高速通信網が代替する価値世界においてその存在意義を見いだそうとしているかのようですね。いいやん世界が狭くても。とボクは少しだけ思う。/T.Aスピードは異なる角度から斜視すると「タイムラグ」という観点で違う解釈から説明できる。昨日の新聞に首都圏防衛の為に首都圏周辺の米軍基地にPAC3を重点的に配備するという記事が出てました。日本海に展開するイージスからSM3で大気圏外で迎撃し最終ラインにPAC3という布陣を敷いて弾道ミサイルを撃ち落とすという算段なわけだけど、まあノドンにしろスカッド改良型にしろ到達時間は7分と謂われてるからまあ気休め。 例えば弾道ミサイルは居心地悪そうだからロケット推進の巡航ミサイルとかあったらそれを旅客化して乗ってみると、東海道五十三次のパノラマは進行方向への視点の収束という暴力に置き換わるでしょう。(ちなみにいつも泊まるこの部屋には東海道五十三次の印刷レプリカが飾られている。つまり高速で東海道を東進し、定点で歌川広重を静止画で鑑賞するいう案配)J.デリダが90年代にMissive(速達書簡)という意のコンテンツを書いていましたが、ここですなわちMISSILEの比較同意義として扱っていたことを思いこさずにはいられません。予想できるのは外的な感覚刺激を認定する反射が時間を幾許にも伸縮する可能性があるということでしょうか。興味深いことに同じ時期の報道に「地震が発生する10秒前にP派を捉えてお知らせする装置が開発された」という記事がありました。『震災』の身体体験を思い出すと揺れ始めてわずかだけども反応が鈍って余白を感じる瞬間があるんですね。もしかするとこれが理性的に判断しようとする脳の反応と身体反射(脊髄的反射)のずれなのかもしれない。もともと明確な公理とも謂いがたい時間がこうしたやりかたで発見されるという意味で、ボクたちははじめから短縮できるという嘘にまやかされて血液型のように時間を物差しに仕立てたのではなかったか?やっぱり近代は逆の意味で『時間』を殺したと謂えるかもしれない。/T.A『ライフ・アフター・ゴッド』をバイブルに、気づいたら1週間は始まってしまいました。もちろんすべて既知のことです。/T.A人里離れた光年の啾啾とした私語であった 30,october 2006 24:00
不意に寄った上野の古書市で魅入られた横光利一に関する書籍を手にして暫く森を歩いた。さてどうしてこの本を買う羽目になったのかというと、20年も前に大学図書館で読みその文体に強い印象を受け今も尚最も好きな作品のひとつである『旅愁』の抜粋がその書籍に転載されていたからで、さらに正直に言うとなぜか懐古の情に絆されたからでもあるしなぜ上野に来ねばならなかったのかに不思議な確信が持てたからなのです。その本を手に取ったとき(曖昧ながら)『旅愁』には建て変わった帝冠様式の上野の博物館をパリ、モンマルトルのサクレ.クールに喩えるシーンがあったと頭を過ったからからかもしれないけど、むろん記憶の継ぎ目の綻びに行き当たった喜びから感傷に浸っている訳でもなく、ここで思い起こさせられるのはまさに『旅愁』において主人公矢代から発話される「みなそれぞれ旅をしているのだ、すべてのものは旅そのものだ」という狂信と、その後に続く次のセンテンス「凡庸な感傷も胸を透って、庭の中央に枝を拡げた一本の銀杏の樹を見上げ、矢代はそれも同様に支那から流れてきたものだと思った。(中略)何はともあれ、自分はこの風景の中から出たのだった。廻り巡って見て来た地表のすべての眺めの中、この一點を坤軸として選み落とされた自分だった」(新潮文庫『旅愁』より)という驚くべき一節を理解するためであることは語るべくもないでしょう。/T.Aこの『旅愁』における旅には相反するふたつの旅が描かれる、ひとつは建築会社の調査部員として近代建築の様式調査のための欧州を遍歴するヨーロッパの血脈を希求する旅、そしてもひとつはその後の旅、すなわち足を踏み入れたことのない父の郷里に骨となった父を埋める墓場を探す為の旅。強い欧米模倣型の文化批判を内包した作品であることは従来より語られた通りだと思うけど、特にこの後者で語られる風景はすなわち未だ見ぬその風景世界から創出された自己とその根源にかかわる一節なのであり、結果「すべてを駆け足で見て回る」ことで失われる世界と自己の関係について思いを巡らすという、まさに旅と時間、旅する主体と世界の関係について言及したものなのですね。父親の目線に近似していくという運動は悪しき血と言い放ったランボーを思い起こさせます。これはあとでしばらくして気付いたのだけど上野はボクの父親が学生として十代を過ごした場所でもあり彼が通ったであろう奏楽堂の跡を家に残る一枚の写真について思い出したのでした。/T.Aさて矢代が父の痕跡を感じる為に頂きに登り骨箱を松の枝に吊り下げて休むシーンではこんな風に表現されてます。「助骨の間を音もなく吹き抜けていくような、冴えとほつたうす寒い、人里離れた光年の啾啾とした私語であった」
そんな気分に誘われた訳でもないが森を抜けて谷中をさまよう。幸田露伴の五重塔の痕跡を見てみたいとう凡庸な欲望もあったのも確かだけど、「枯れた風景」に足が向くのはそうした性急な運動に批判的な気運に満たされていたからという方がむしろ支配的。さて青山墓地は徳川の重臣家系である青山氏の領地であるとしたら、谷中の由来はもう少し古く戦国時代にその詳細はさかのぼる様子。しかしひとつ気づいたことがある。青山・谷中にしろ比較的近世に整地された事情があるということ。別の言い方をすると古い墓跡を近代的な手法において整理したということかな。古典的都市空間が近代整理される過程は時制がコントロールされる時代に被っているということ、これはひとつのヒントになりそうです。そうした性急な近代化が古典的な未整理の空間を消した、そして謂うなればその近代もすでにボクらの目には古色蒼然になりつつあるということでしょうか。この東京から本当の「鬼哭啾啾なるもの」が消えつつあるということかもしれない。そう思うと谷中のふところでボクが啾啾なる気分にとらわれました。/T.Aこれは余談だけど森敦がこんなことを書いてました。横光利一というひとはほぼ毎晩銀座を食べ歩く食い道楽で、死因が胃潰瘍による腹膜炎ということ知り思い当たる節がたくさんあると。ちなみに横光利一のお墓は多摩で碑銘は親友、川端康成の書。死者の痕跡って記憶とは全く別の次元で考えないといけないのかもしれません。/T.Aコントラクトアワー/contracthour
\31,october 2006 24:00

11月例えば今回持参したコートが不要であることにようやく気づいたように、あるいはその他の時節に、環境の予期できない動きにやはり畏怖の念をボクは抱く。しかし東京に滞在してから一度も最高気温が20度を割っていません。一時期『異常気象』という触れ込みが特殊な末期症状のように語られて随分たつ。確かに過去最高の気温とか風とか、ここ最近よく耳にするようになった気はする。ちなみに今日の朝のトピックではイギリスの異常気象の影響でイングリッシュガーデンが瀕死の危機にあるというようなことを報道していました。もともと潤沢な水分をたたえた空気感が例えばロンドンの風景を作り出している訳で、この事実がイングリッシュガーデンの明確かつ特権的な存在価値だと思われる。さて実はこの報道のなかでひとつ気になることがありました。実は今日の一日の考察はこのロンドン在住のイングリッシュガーデンのアーテースとの発言に端を発したものです。それはダイレクトにいうならばこの気象にあわせて植物相を替えてでも「形式や様式を守るべきかどうか」ということを意味しています。もう少しうまく要約すればこのアーティストはイングリッシュガーデンの様式を守る為(つまり時期に涸らさないように、さらに温暖化に対処するために)には、古典的な植物相を変えることもやむをえないという立場のようでした。これは実は20世紀の建築やアートにおける大きな問題を代弁しているように思えるのです。植物相を変えるということはその意味性そのものをシフトするという事態なのであって、それは様式を破壊してまったく新しい価値基準を導入するという、前世紀に繰り返してきた文字通りの『淘汰』を指すからなのです。/T.A要するに英国にしてその生息を可能にしてきた植物は気象の変化において存在を危ぶまれ、そのことがこのかつて見ない特殊な気候においてまさに「その様式を生き延びさせる為に」地中海性の植物を敢えて代用するというショッキング極まりない悪行に衝撃を受けたということをここで伝えたかったというのが本旨なわけです。この「地中海性の植物を導入する」という一言がいかに衝撃的であるかをうまく説明するには次の背景を理解してもらえばわかるように思います。かつて地中海諸国、具体的にはローマ帝国から見たフランス以北の国々は先進的なローマに対峙して『グロテスク』と形容呼称された。このグロテスクという形容はのちのくくりからするとすなわちケルト/ガリアなわけだけれども、そのローマ帝国におけるグロテスクは 数百年後にゴシックとなり、世紀を隔ててかつて類を見ないヌーボークラシック(新古典をこういう風に言い換えてみました)を形成したという歴史上のトピックを連想させる/T.Aつまり植物相はその地におけるゲニウスロキなのであり芸術や建築の歴史的表象を形成し、さらにいうならばその地に生きる人間の感覚を構成していたに違いない。ボクたちはそうした芸術上における修正がまさに進行しつつある自然の変化(それが人為的であったとしても)の急変において、システムの伝道という目的の為に、その地に根付いた(いや根付かなくなった)植物を忘れて新しいものを導入するという事態ににいささかの疑問も感じなくなっていることに強いショックを抱かざるを得ないのである。/T.Aここでさらに言及するならばこうした事態(つまり人為的な関わりにより環境が長い時間をかけて非自然的な変化を遂げることにかんして)は長い歴史上少なからずあったのではないかという予測に基づいたうえで、さらに深く思考せねばならないのは実は「こうした出来事が思いのほか早く進行している」という事実なのだろう。近年中に九州は亜熱帯となりマラリア蚊の生息地になるともいわれているし、世界中の氷河の消失も加速しつつある。だけれども今日この東京で考えたことはそうした人為的に世界環境が計画的に破壊されつつあることへの憎悪や諦めではないことを謂っておきたいと思う。ボクは、もしも芸術と謂われるものがある種の美術至上の『修正主義/Revisionism』を生成しさらに容認してしまう風潮を生むことに大きな危惧を抱くとともに、それによってイングリッシュガーデンの美学上の繊細さが失われることがとても心配なのです。ある意味後期資本主義経済における時間すすみ方は常にその時期のレートを基準にして時間をの意味を決めてきたのだと思います。そうしたことから世界に共通の基軸や枠組みを生産し、芸術もその有意味/無意味性からしか問うことができなくなった。20世紀モデルは人智を失墜させたとも謂えるのかもしれないですね。/T.A東京の『世界基準的近代ガーデン』をもとめて彷徨いました。/T.Aはっきり地球を覚えておけ
1,November 2006 1:00

そういえば今更ながら実感するのは多くの土地が同じような手法で作り替えられてきたことによる近代における風景の近似といった使い古されてきた都市論はもとより、ボクたちが目にするこの国のほとんどの空間が何かしらの手を加えられつくられてきたという事実である。日本の近代は多くの場合、新しく風景そのものをつくってきたと謂える。灌漑事業、植林の計画的な推進、埋め立てによる工業用地の確保、ルート開発、国家予算の大部分はある意味風景のフェイクのために使われてきたと皮肉のひとつもしてみたくもなるね、確かに。いうまでもなくこの公共事業の乱発や環境破壊の観点でよく語られることの多い。しかしながらボクの気になるのはこうした風景の改ざんにとうのボクたち自身がその変化に寛容であったということ、そして場合によっては実は欄外、つまり「気付きもしなかった」のではないかという疑いです。/T.Aある意味では風景の本質について語るような立場で取り上げられたケースというのは知る限りにおいては皆無であり、そうした側面からの考察はさほど重要な意味を帯びてきたとはいえない。エッフェル塔ができたときにユゴーやモーパッサンが海のメタとして表象されるパリの家並を破壊する悪行として憂慮したことを考えるに、日本の近代以降におけるこうした風景への極端な偏執は認められないし(政治的なプロパガンダ操作の風景構築を除いて)あまり問題視されてきていなかったのも事実。かつては借景然り、無論北斎や芭蕉をあげるまでもなく風景のスペクタクルを芸術に取り込んできた日本人の血脈を継いでいるのにも関らずあまりにも盲目、無知蒙昧な戦後の風景政策ではないかと抗議したくなるわけです。/T.ひとつの観点からみると、こうやって『近代の自然観』は造られたのだということ、そしてそれをうまく使う政府と蒙昧に没した無知な大衆を生産したという事態にボクたちはようやく気付くことになる。さてこの事実に対して考える為には当然指標と方向性が必要ですが、ボクがひとつあげたい指標、それは人工風景が認知され伝統的な風景に取り込まれるというプロセスそのものの観察なのです。どのような人工物もある一定の期間を過ぎ淘汰の短い歴史を付帯させられることにより「それはそのようにしてあった」という既知としての認証を受けるのではないかという事実な訳です。さてそうした人間の感覚に見えざるビスを打ち込む行為はボクの中では果たして次のようなプロジェクトから後に至る大きな疑問として残り続けています。大学時分に興味がてら「大阪にリアルな海浜はあるか、その南限は」というプロジェクトを恥ずかしながらやったことことがあります。これが非常に困難を極めるフィールドワークであったことは想像に違わないでしょう。すなわちそれほど都市海浜部に渚が少ないことを意味します。/T.A東京も同様の事情を抱えている。そうしたことで最も近郊に位置する海浜部、「フェイクの渚を訪ねてみることにした」、それが今日の日常です。人工島に10年以上勤務したことのあるレアケースの人間として語るならば、夏に岩にしみいるように蝉が鳴くようになるまで少なくとも5年はかかり、野鳥が住み着くまでにはさらに3〜4年かかったという印象があります。しかし注目すべきはどのような人工的で暴力的な悪意に満ち満ちた空間であろうとも朽ちる時間をを経ることで立派に大人じみて枯れ果てていくことでひとつの風景として認められていくということなのです。そうした観点からすると人工/自然というかつての2項対立的な古典構図がこの段階ではすでに破綻し異なる視点から考えていかねばならない筈なのにそれは実現していない。/T.A例えば建築がかつてほど美しいものでなくなった大きな理由のひとつが人工物であることの特権を主張し始めてからのことのように思う。そうした態度は自然を対象物として切り離して対峙する構図に置き換えた。対峙した自然の美は常に建築を凌駕する訳です。近代はこうした失敗に気付くことなくやがて『朽ちる』という自然の淘汰作用に身を寄せることで辛うじて風景の均衡を保っているように見える訳で、おそらくこれが人工的風景をも美しく魅せる原因なのではないかとボクは思います。「人工物が環境に馴染む」って結局そういうことでしょうか。/T.A芭蕉の句で最もスペクタクルに満ちたものとしては、ご存知の「対岸から佐渡を眺める視覚によこたう天の川」の描写があります。自然をも凌駕する自然(まあいわば宇宙)が存在するという世界の雄大さにボクたちは心とらわれるわけですが、一方で人工物をも朽ちさせ景色に取り込む強度性におそらく敷かれるのだろうなと思いました。だから田舎に行けば自然に浸れると思っているうちは地球の強さを知らないということになる。すなわち「地球を恋しいと思ったことのない不思議な感覚にちらわれていた(ライフアフターゴッド)」ということなのである/これが風景の変化に気付くことのできない健忘症の正体である。/T.A東京ウォーターズエッジ
2,Novenmber 2006 22:00

上野付近で線路をさまよう何者かのおかげで山手線が止まってしまい、神田に停車したままのすし詰めの車内で乗客は携帯で一斉に通信を始めました。『テクノロジーによって加速していく「時間」をボクらはほんとうに「時間」として感じることができるのだろうか?』x世代のスローガンにもなったこの問いは15年経過したこの時代においてどのように解釈を変えたらよいのでしょうか?そんなことをその光景に見入りながら思った。世紀の節目に見えないものに期待し失望させられた経験をボクたちはしています。もし何かが変わった年をひとつ思い起こすとしたらボクは1991年をあげるかもしれない。ジェネレーションXが発刊されたこの1991年という年は過去数千年間の有史において初めて開かれたインターフェースが個人に備わった時代なのではないでしょうか。アップルが誕生する要因であったビックブルー、IBMとの提携したのは1991年7月。(10年後UNIXOSであるMACOSXを発表したけど、それを駆動する高速CPU/POWER PCがまだ開発されてなくこの時の技術提携が大きかったんですよね)またそれ以前はGopherやFTPをはじめ生のプロトコルしか存在していなかった時代、米国のNCSA(National Center for Super-computing Application)が世界初の世界初のWWWフルブラウザ『NCSA Mosaic』を開発したのが1991年1月。/T.A
アランケイによって予言されたダイナブックの考察はインターフェースのあり方を塗り替える予感を世界に与えたけれども、高速のCPUを備えた携帯化する端末はGUIのプラットフォームを配備しついにはGUIブラウザーまで登場したこの年、パソコンの画面が行き止まりの面から深度をもった窓枠に替わった。つまりそんな年だったと思う訳です。その後の加速と問題噴出はここで取り上げるまでもありません。ちなみにX世代っていうのは社会に対して挫折感を持っているうえに終末に怯える世代ですから、そんな世界の変化に楽観的な未来像を抱いたり手放しで喜んだりしない。接続することへの不信感があるのかもしれません。/T.A

さてなぜこうしたことを書くのかというと、水際っていうか、境界に赴いて足を渚につけてばちゃばちゃしたりすることの快楽を人間は知ってしまった、のではないかなと朝食を前にしてぼんやり感じたことが発端なのです。ネットサーフもそのばちゃばちゃです。予定を決めかねながら仕事に赴き、昼食どきには羽田が適当なような気がして文字通り水際に向かったわけです。JLゴダールは空港で飛行機が飛び立つシーンをとる必要もないとおっしゃってましたが、飛行機がのろのろと滑走路に向かう姿はなぜか愛らしいものがある。空港は発着機能そのものであるけれど、別のどこかと接続されたすなわち水際であって出発しなくてもいい場所でもあるのではないかと思っています。おそらく飛行機に乗ってしまったら空間がその神秘性をはぎ取られて「大阪まで1時間」という係数とスケールに置換される。つまりこれを作品タイトルとするならば「機能の行使とその結果」という味気ないものになるに違いないのです。あの新幹線の中で感じた『時間』を殺す、という感覚はこうした利便性のスケールに置き換えてしまう近代人の無意識なのではなかろうか。/T.A しかし反面水際の水遊びから脱していかねばならない瞬間があります。100年前の1891年、もうひとつの『水際』がありました。アルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)は1891年11月10日10時にマルセイユのコンセプシオン病院で死亡した。アフリカに出発できずにその水際で死亡したんですね。比較的若い時分にそうしたことを知ったことが個人的に大きな糧になったと思う。「人生はほかにある」、その意を正しく汲むことは困難ですが、水際はまさしく「逃亡を誘因するもの」であって水際のサーフでは決して知り得ないことがその先にあるのもまた事実なのではないでしょうか/T.A 外濠から坂、丘陵を経て再び濠へ
3,Novenmber 2006 22:00
犬養道子の『セーヌ左岸で』に興味深い記述がある。フランスチャンネル3で日本に関するドキュメンタリーの冒頭に「日本。東京。番地なく、地図なき町。国。混沌の地…」とアナウンサーが解説したことに関して、「地図はちゃんとありますとおっしゃるだろう…が、日本にある番地は、正規正式の番地ではない。ない証拠は番地だけ知っていても、日本語のできぬ外人のだれにいったい、ひとり歩きでその番地の家までたどりつけるだろうか。たどりつけないのである」パリはチュイレリー宮の庭を中心にした1区から右回りに20区で終わることはよく知られている。通りはアヴェニュー、ブルヴァール、リュの3つ。セーヌ河に対して直角に近い通りは河から数えて数字が増え右手が偶数、左手が奇数、セーヌと平行の場合は河の流れの方向にむかって数が増えやはり右手が偶数、左手が奇数。これに門、広場といったエレメントが配置される。この迷いようもないシステム、これこそが本来の合理性/raisonnable/なのでしょう。つまり西欧的な合理性の視点から見ると近代日本における脈略のない番地の配置はとても理解しづらいことのようです。もっと直感的にいうならば分別し誰もが理解し覚えられるためのシステムが番地である筈なのにその番地のおかげで余計に混乱する仕組みになっているのが例えば東京の番地な訳です。/T.A 近代の番地そのものが脈略がないとして、では東京の町割は合理的ではないのか?例えば飯田橋から新大久保あたりまでを地図を見ずに歩いてみるとわかるけれども土地勘のない人間には方角を把握することすらほぼ不可能だろう。もともと日本の都市の古典的スタイルは中国の宮城の条理制に則したものがベースにあることからグリッドプランは基本だと考えられてましたね。しかし江戸は江戸城を中心として町が構成されている。江戸初期の古地図図版を神保町に探しにいきました。そうして目にした地図では小分けにしたグリッドがパッチワーク状に配置されているのが確認できます。家光の時代では江戸城は3重の堀で囲まれておりこの最も外側が今の文字通りの『外濠』である。/飯田橋で神田川と合流します(つまり両国ー神田ーお茶の水ー水道橋ー飯田橋ー市ヶ谷〜のライン)初期の江戸は江戸城の中に町があったといっても過言ではない。これが理由のひとつでしょう。さらにもうひとつの理由は地形ではないかと思います。東京はとてもでこぼこしていて河が蛇行している。関西とはかなり条件が違う。ほとんどが堆積地である大阪には上町あたりにしか丘陵は存在しない。江戸は早い時期に人工100万を超えて世界最大の都市であったことは既知のとおり。そういったことも加味するとやはり基礎は非合理的な無計画さとはほど遠いかなり苦労してできた都市なのであり、400年弱という時間、つまり火災、震災、空襲などの破壊と上書きを繰り返す間にある種混沌化したといえるのではないでしょうか。/T.A パリはパッサージュの街でした、といわれますよね、これは19世紀以前のパリを指している。つまりオスマン計画以前ということ。実はパリは19世紀前半までは18世紀までの混沌を色濃く残していたと思われる。かのオスマン計画ではルーヴル宮とカルーゼル凱旋門との間を占めていた老朽化した街区は取り壊され今見ることのできる広場になったりしてます。(実はこと時にドワイエネ袋小路が無くなりました。ジェラール・ド・ネルヴァルが若い頃住んでいた通りです)またノートル=ダム大聖堂前の広場も4倍もの面積に拡張されたために迷路のように錯綜する諸小路や陋屋はすべて撤去された。ロマン主義文学の舞台となった猥雑なパッサージュはこの時に消えてしまったということを思い出す必要があります。/T.A幸い東京は都市としての綻びのような場所が多く残っているし、人を不機嫌にさせるほどに「迷える」街であるように思う。巨大なボリュームをもった開発地区に接して極小ボリュームの空間がひしめいていたりする。そう意味では合理性に乏しくパリほどに完成されたエスプリもないのも事実。しかし考え方によるとこの非合理性こそがそこにしかないものを生み出す可能性があるともいえるし個人的には好意的です。/T.A
ところで日本橋の風景を取り戻すための高速橋脚の撤去がつい最近話題になりました。当たり前の話ですが「ない方がいいに決まってる」けども無軌道に造っちゃった訳だし、それを埋めても東海道五十三次の風景がそこに現れるわけでもないので、はっきりいえばこういう考え方はある意味でナンセンスです。政治の局所局所で一転二転するようなものがどうして大切だと謂えるわけでしょうか?大衆意識の悪辣さと政治に高い文化意識が存在しないことを見事に露呈してますね。近代否学生紛争以降の日本は「ナンセンス国家」です。犬養道子は日本の伝統的な所作の美しさを知っているからこそ厳しい意見をのべるわけなのでそれに習って吠えてみました。/T.A
ウィークエンドはすなわち日常の最終日、
4,Novenmber 2006 21:00
ウィークエンドはすなわち日常の最終日、鳶の群れを見にまた東京近郊の海へ。陽の傾いた4時から銀行を改装したバールでウィスキーを呑みました。世界のあらゆるスラッカーライフに敬意を表します。さてそこで考えてみたことをここでは覚書としてメモしておきたいと思います。/T.Aそこに至るまでに目にした風景、朽ちた保養施設とか、住宅街に不意にある薮だとか、あるところは観光でにぎわい整備されて、裏はまちまちの時間において放置された世界はなぜか安心するものがあります。ゆき届かなさにひとつの自然の形を感じることはいつか前述したようにボクたちを取り巻く多くの風景が意図されたものであること、そしてそれが人為的であるという意味においてつくり込む美学に対抗するものでもあるからだけど、でも単にそれだけではないということを敢えて確認しておきたいと思うのです。なぜか。それはこの1週間の問いへのひとつの答えがあるからです。かつて「ウィークエンドはいらない」という発言をした記憶があるけど週末は決算日としたほうがもう少し人生が面白そうですので今からそうします。/T.A英国などを中心に18世紀以降しばらく流行った傾向にある『廃園思想』にはグロテスクロマン(以前書いたように『グロテスク』とはあくまでもローマからみたフランス以北の未開地区を表す総称ですからこの呼称が必ずしも正しくはないのですが)がありました。いわゆる終末美学とも異なるロマンチズムですが、そうした影響を受けた18世紀に作庭されたもので明快なものをひとつ挙げたいと思います。『ヴェルリッツ庭園(Wo¨erlitz Park)』と呼ばれるドイツ、エルベ河畔につくられた庭園都市がその例。当時を反映した様式の混乱的な使用が認められ古代回帰指向が混在すると同時に庭園部と都市・田園部との景観の断絶を消して敢えて廃墟建築を配置した廃園です。もちろんこれは啓蒙思想下における精神性の影響が色濃く反映してるしロマンチズムにおけるやみくもな風景ノスタルジーが狂気的に露出した例でもありますがランドスケープの考え方としてはなかなかのものがあります。不思議なことにノスタルジーのようなものは想起や反復によって作り出すことができると気付いたのはこれが最初ではありませんが、確かに非常によくできた庭園や時間芸術(映画など)はフェイクであっても心動かされることはあるものです。/T.Aしかし仮にそうであっても置き去られた空間には廃園庭園にはないものがあるとボクは思います。(ここからはかなりの暴論になります)それは美学的な視点からするとおそらく醜悪さでしょう。手入れされない庭はすなわち美学的なノスタルジーに基づくものではなく、腐敗し、朽ちた、死したものでしかない。あるいは乱雑で秩序立たないもの。つまり極端に謂うと廃園をわざわざつくるということはギリシア的な戯曲における「悲劇の美学」に似ているわけで、実はそれをギリシャ世界の秩序だった美が悲劇ですらも包括している。(ディオニュソスはギリシャ世界に対峙するものとして描かれるけどまあいちおう神なわけです。混沌がないと秩序はないですから。ギリシャの世界観の範疇がそうした世界をひとつの美としてつくりあげているともいえます)だからある意味そこは少なくとも2000年以上かわってはいないということなのではないでしょうか。しかし少なくとも『朽ちていくもの』を模倣することはできない。なぜならそれは仮に状況を模倣できても崩れていくことの質は模倣できないからではないですか。もちろん朽ちることを想定した計画庭園や建築もありますがそれは「廃退という装飾」に過ぎないわけです。/T.A 「つくる」ということ「ととのえる」といった行為のレベルと崩壊していくという作用の質はまったく異なるレベルに属しているにもかかわらず、人間の規範の中にはそうした崩壊作用に抗するものだという誤解が常にある。これはきわめて個人的な偏った言及かもしれないけど、このジレンマを感じることがなぜだか大切なように思うのです。昨今の東京都内の巨大開発には正直悪寒がしますが、でもその街裏で400年前の濠が醜く澱んでいるように。ハイエナジーとローテクがそこに同居するしかないようにです。高速鉄道の高架下でリヤカーのスピードで一生を送るように、航空機のジェットエンジンに鳥が巻き込まれるように、こんな俗なあり方が今のボクたちをとりまく環境の風景であるということをふつうに受け入れること、またこれをのみこむということです。/T.A
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first monday, Every day in continued Tokyo
更に継続される東京日常/29,october 2007
ホテルから見える風景は変わり、そしてまた一週間。29,october 2007 22:00

恋愛小説はナンセンスである。そしてそう感じさせられたハタチの時に読んだその小説はSFでした。換言すれば『私が知る限りで最も痛みを伴うSFこそは恋愛小説だった』ということになるかもしれない。それは悲痛でありながら悲劇ではなくユーモアに彩られ、何も残らない小説。その作者はラディカリズムが先鋭化した時代に突然現れ、沈静化を待つ事なく忽然と消え去った。ボリス・ヴィアンとは寵児とは無縁の根無しの現前だったのです。/T.Aこのある種根無しのエッセイ『東京日常』において、語り始める事は想像以上に難しいことです。そもそも語るべき事などなかった。とかって、うそぶいて1週間を有意義に過ごすべきなのであり、おそらくそうしたことで得られる身体的、精神的な効用は計りし得ないでしょう。この話の語り始めについての具体的なきっかけとは滞在したホテルの『窓』あるいは『窓から見えるなにか』だったのです。それはいつもの東京行のもう少し前から始まっていたと思います。その『窓』という極めて西欧的な暗示を介してその先にある何かを指し示すこと、そのものこそがきっと『有意味性』自体を意味してるのだと、。/T.Aぼくたちが『うたかたの日々』(或は『日々の泡』)によって指し示されたなにかから学ぶべきことについてここで言及する事は難しいけど、ひとつ思い起こさせる事があるとするならば、多分そのあからさまな「無意味」だったに違いない。68年のパリがボリス・ヴィアンを見いだした事は必然だったかもしれない。しかしその存在意義こそはヴィアンの「無意味」を超えられないということを意味しています。『窓』は別世界への入り口であり続ける。だけど無意味であり続ける事の痛みは、そのものを理解しようとする運動からは決して知ることはできないでしょう。ぼくはそうしたことを『うたかたの日々』から学び、それが本当の『はかなさ』であったことに気付かせてくれたのです。つまりそれこそが恋愛のはかなさです。恋愛とはSFでありSFは世界の窓であり、その窓は『はかなさ』知らず。東京日常はそうして始まったわけです。/T.Aことばによる環境表層とその窓について/Eco-pessimism of the words
30,october 2007 24:00

東京もこの時期、11月だというのに25度を超える気温を記録し世界は確実に暖まっているように感じる。思い起こすにこれまで特に気象変動のみに注視した文学について、あまり記憶にはないのですが、気象が与える文学的な所与とその影響について『ことば』を通じて表現された例についてあげるとするならば枚挙にいとまはないでしょう。もし危惧すべきことがあるとすれば例えるならばこんなカンジです。「過度な気象変化に関する情報が普通に氾濫し、それらの痛々しい『ことば』たちによって鈍らされた気分が世界のナーバスを作り出し、身体的な感覚を麻痺させる事態」そうして鈍化してしまったぼくたちが気象の変化を気配として感じる事が今後あるのでしょうか。/T.A
『ことば』たちによって鈍らされた気分。それは文字通り文学作品に置換するとしたら、ボルへスによる『ブロディーの報告書』の原住民の概念性に喩えられるかもしれません。5という要素、すなわち1から4までのカウントと無限についての概念、数少ない単語による表象と表現され得ない実体。つまりことばによる世界の抽象化についての疑問がそこに凝縮されている。/T.A
ことばへの軽蔑と不審。それこそが『言語の迷宮』に棲むホルヘルイスボルヘスの真の態度とするなら、余計に世界の分節化について真剣に考えざるを得なくなるに違いないのです。つまりそれはことばによる表現の高度化の過程における、肌感覚の退化といえるのかもしれませんね。単純な身体性の退行とも異なるなにか…。ことばの万能性を長じることでろくな目にあってこなかったであろうぼくたちであるにもかかわらず、世界の気象時事においてもやはりことばにおける世界表象の土台にのっかっていて、そうしたことが目測を狂わせているのだとしたら、やはり近代以降においてぼくたちはとてつもなく不幸に見舞われたのだと考えざるを得ない。だから、ここ東京の地下鉄における過剰な暑さはそもそも地下鉄運行に関するロジックとは関係ないにもかかわらずぼくらは、その責任の追及と問題の解決おいて、決して曖昧にする事なく、ことばによる認知活動の上でその善し悪しをジャッジしているのです。『ヒト』とみずから呼称するボクたちは世界が人間の作り出した過剰なエネルギーによって破滅することがあったとしても、決して『無意味』の論理性から解釈したり諦めたりしないある種のパラノイアであって、くだけて云うならばそれこそが世界悪、すなわち真の悪魔だと云えるのかもしれません。/T.A東京というスケール、あるいはその不幸/
By averaging space
31,October 2007

『ブロディーの報告書』のデビッド・ブロディなる人物はスコットランド人の宣教師である。スコットランド(Scotland)/ゲール語では「アラパ」(Alba)とよばれるその地ははイングランドに1707年、合同法により事実上併合される。グレートブリテン島の北部は典型的な西岸海洋性気候であり、偏西風の影響で緯度の割には温暖な気候である。ふとしたきっかでケルト系ピクト人がそうした地においてスコッチウィスキーをつくり始めたであろうことに気遣いを馳せるのはなぜでしょうか。/T.A最近「グローバルスタンダードが日本を滅ぼす」という過剰な議論がさかんです。食料、産業など様々な国勢を左右する事項において由々しき状況は加速しているというわけ。/というある種のペシミズムにバインドされていることは否定できません。しかし確かにリージョナルな問題をある種の国際水準に沿わせて平準化することによる影響は計りしえないですね。ピートの大地スコットランドの土壌、極度の軟水、その気候でしかつくれないものであっても、日本は世界で唯一コピーを確立し、ある意味ではそれ以上のウィスキーを蒸溜することに成功した。この問いは個人的には単純に価値の分散と共用では片付けられない問題があると感じるのです。/T.A

それはすなわち一般的には『近代』についての概念を共有するための議論に使われます。そうした『みかんの足し算』のような抽象化を発見したのが近代の学問であれば、それを生きる事を強いられる時代こそがこれまで正確に語られて来なかった『近代』といえるのかもしれないです。抽象化とはすなわち非人称化であり個の廃棄である。こうしたフレームはおそらく産業においても当てはめる事が可能ではないだろうか。『東京』という単語はそもそも場所を表す固有名詞などではなく、平準化するための物差しのような役目を果たしているようにも見えるのはあながち的外れな考察でもなさそう。/T.A
茅の沼
The town which stands in the marsh
1,November 2007

滞在中の地においてその歴史を地政としてとらえ偶然のその接点につながりを見いだそうという欲求は、時として、ほぼ妄想に近いものです。かつて家康が江戸城築城のための資材置き場として行われた江戸湾の埋め立て事業から生まれたこの地は、それ以前一面に茅が生い茂った汐入りの沼地だったそうです。東京駅からほど近いその場にあって、「茅が多い茂った沼」というイメージはあまりに寒々しく同時に心揺さぶるものがあるとボクには思えました。それは極めて深層的で不随意的な反応のような気がして。/T.A
蕉門十哲のひとり榎本其角(のちの宝井其角)の庵もこの地にありました。ホテルにチェックインするよりも先にまずはその場を訪れたのは、3ヶ月前に壱岐に滞在したこともあるかもしれないし、(壱岐は河合曾良の終焉の地である)1年間に神保町にて偶然入手した芭蕉本のせいかもしれないけど、実際のところは其角なる句人についてあまりよくわからないといった気持ちがあったからかもしれません。いわゆる「好まざるもの」といった喰わずに近い案配であったことは確かで、そのことを否定はしません。其角という人は若い頃はアル中気味の酒豪であったという記録が残っているそうですが、その趣味たるや芭蕉本人と比較すると大きな隔たりが感じられます。そこに芭蕉の『閑寂趣向』は一切ないと言い切れます。/T.A
後に江戸座の祖としての位置を確立しますが、実は其角という存在がおそらくはボクの考える「新しい江戸」(つまり江戸中期から後期の、江戸という単語情報から喚起されるイメージ)を象徴しているような気がしてならないのです。芭蕉に匹敵する繊細さを持ち合わせながらも、その句は都会的で伊達、華やかな印象を受けます。これは明らかな元禄気風でそうした時代の精神性を代弁しているに違いありません。一方の芭蕉はご存知のように旅人です。スペクタクルな一面はあるけれど華やかさははい。この「閑寂」はむしろ芭蕉独特のもので「侘び寂び」とも少し異なるような気がします。/T.A
現代の東京の気風は元禄の華やかさの遺伝子を引き継いでいるようにも見ます。が、洗練は先鋭とは異なったものです。TOKYOがスタンダードとしてのスケールサイズにもしもなっていく、もしくはなっているという自負があったとしたら、この街は保守の殿堂として成り下がり屍に体となるでしょう。「茅が生い茂った汐入りの沼地」であったであろう中世以前の名も無きその地は、今「東京都中央区日本橋茅場町」と呼ばれる。隣接する兜町同様、戦後GHQによる取引禁止を組織的な集団売買による復活をとげ、長く世界のトレーディングスポットとしての地位を保ってきたけどかつての勢いはアジア覇権の陰で翳ってきています。多分そこに先鋭はないと感じます。/T.A

「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」  其角火災の多かった江戸の街を詠ったこの句には、「家事と喧嘩は江戸の花」とした表現として通底するニュアンスがある、と感じます。かつて「沼地」であり名も無き場であった気配を感じて慄然とすることこそ先鋭になり得る事もあるのかもしれない。/T.A
東京ウォーターエッジ
TOKYO water EDGE
2,November 2007

東京湾のエッジの形成は、江戸城の濠に深く関係しています。台地を切り崩し濠を形成する際の土砂により、江戸城前面の海や低湿地が埋め立てられました。茅のおおい茂った沼はそうして都市の一部として取り込まれていったわけですね。ちなみに外濠と内濠について神保町の書籍にて調べてみたところかなりの数に昇ります。(神田川(仙台堀)、飯田濠、牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠、四谷濠(真田濠)、弁慶濠、溜池、日本橋川、桜田濠、柳の井、凱旋濠、日比谷濠、馬場先濠、桔梗濠、和田倉濠、大手濠、白鳥濠、蓮池濠、乾濠、平川濠、天神濠、清水濠、半蔵濠)そこで神保町から神田→お茶の水→市ヶ谷→四谷の順に進み全景を徒歩で歩いてみました。/T.A

東京の水際のエッジ形成を考えるには、都市の自由な成長過程とは異なる地政学的な段階を経た癖を読み解く事に他なりません。それは東京の地理を矯正する過程でもあって、非常に大雑把な見方をすればその都市固有の形式といえないこともないと思います。2年前の東京日常において触れた事でもありますが、東京という街には「余りの空間」(これをデッドスペースと云うには早計過ぎるかとは思う)が非常に多い。こうしたうまく納まっていない場所には往々にして雑草が無造作に覆い茂りゴミが山積しているんですね。これはまさに吹き溜まりに相当する。このような位相を持った場所は世界はおろか、国内でもあまり目にすることはないように思います。少なくとも関西圏の都市には殆ど見受けられない。異なるメソッドが時代を隔てて交錯しその文脈が都市レベルで整理されることなく降り積もった、なんだかそんな風にみえます。/T.A

『エッジ』という概念については、広く共有することがまだ難しい段階にあります。もう少し踏み込んでいうなら都市に関するエレメントを表現する学術的な語彙がうまく該当しなくなってきているということも云える訳です。都市概念における多くの部分は今でもギリシャ時代そのスルス(根源)を持ちます。これは古典的な観念論における腐敗が起こったにもかかわらず、これまでも幾多の歴史的な場面でその再興/再考が試みられてきたという事情があると思います。19世紀の様式戦争の時はアゴラアーケタイプの復興が試みられ、ナチズムにおいては更に歪曲したものとして露呈した。(ただネオプラトン学派の流れはマルクス主義に帰結しアゴラの棄却に至りますが、これこそ形骸化の大きな枠組みの一部ともいえるのではないかと感じます)/T.A

『東京』を形骸化した枠組みで捉えるには、難題が多くありそうです。例えば『京都』を考えるとよく理解できるのですが、『京都』という街にはシステムが目に見えるカタチとして(つまり都市の構造として)多く残っています。だから古典が失われたのか、描き換えられたのか、それはどんな風な経緯としてみれるのかがかなり明快だと思うのです。だから目に見える部分では(問題も含め)あまり不可解な部位がない。『東京』のビット落ちみたいな場所/不可解な三角地帯があまりない。更に驚くべき事に東京の人々はその不可解な位相地帯についてあまり気に留めているようでもないのです。これがこの類をみない街に棲む人々の日常なんですね。多分。/T.A
つくり続けることに疑問ももたなければ、その労働は終わらない。すなわちそれは仕事でない。
about "homo-faber" 
3,November 2007

この都市には本来的な意味での都心が曖昧であるという議論はよく耳にします。そのとおりいくつもの突出したボリュームが存在し、そのすべてがとてつもなく巨大です。しかもそれらはいまだに成長過程にあります。あまり知られていないことですが、日本という国は、必要以上にスケールを逸脱したメガ空間をつくる事は得意ですが、壊す事にはあまりなれていません。アメリカのように早くからそうしたボリュームが存在した国では壊す技術も発達しました。成長はいつかとまり老朽化した高層建築が乱立する日も必ずくることでしょう。/T.A

モノの支配する概念的な世界において、「人工物」が組織される過程(人間の手による)についてはいまだに多くの考察がなされています。ハンナアーレントの「人間の条件」によれば「労働(labor)」と「仕事(work)」は峻別されています。「労働」が生物学的なプロセスに呼応した活動であるのに対して、「仕事」とは「人間存在の非自然生」に呼応した活動、周囲の自然のどれとも異なったモノの「人工性」そのものだと定義されています。あるいはそうしたものの生産原理にかかわるものだと解釈できるかもしれません。/T.A

こうした見方はヴィトルヴィウスなどにも多くの部分で通底するものがあるけれど、実際にはその解釈には多様な見方があり学問的な基準にはなり得てないですね。さて人間の生産的な活動をとらえる過程の中から、『建築』とはなにかについて考察を試みた論文に、ケネス・フランプトンの『労働、仕事、建築』というさほど長くもない寄稿文があります。この70年代初頭に書かれた文章の結論は大雑把にいうとこんな具合です、〜「建築」する行為と、「建てる」行為を、思考レベルでも現実のオペレーションでも慎重に区別すべきで、建築の本質に同居する「労働」性と「仕事」性をはっきり分けて表現すべきだ。〜と。/T.A

そういえば「建築」とは「建設」とは違う。、とかって、よく大学(建築学科)で教え込まれたものです。さてここでよく考えなければならないのは、「仕事」性に準拠した「建築」する行為にはあって、「労働」性に根ざしていると考えられる「建てる」という行為にないものとは何かです。(覚えておいてください。間違ってはならないのは、例えばデザイナーと製造者の関係を示唆しているわけではないということ)/T.A

「edifice(建築物)」は厳密には「教会、宮殿、砦」など威厳ある建物のみに使われてきたという事実。そして「edifice」は動詞edifyに直結しており、このedifyは「建てる」という意味のみならず「教育する」「設立する」という意味を併せ持つようです。
そのラテン語源は「aedificare(炉端)」、つまり公共性の成立と建築は関係すると。/T.A

確かに「公共」性という概念は人工的なものですね。もう少しいうならば「公共性」とは人間が必要に応じてつくったものです。そうした意味ではひどく人工的な側面があります。ある意味「教育」もそう。「aedificare(炉端)」に象徴されるように火を囲む場をつくることと、建築という行為、そして公共。このつながりが、ある意味では「創る」ということ/すなわち人工性の意味を考えるヒントになるのかもしれません。/T.A

ちなみにこのあたりのことって、多分おおくのジャンルで「近代」に成立した概念だと思われているケースが多々あると思うのです。でもそうではない。よくよく考えると『人工物』、あるいは『人工物』を生産する行為は、自然の生産性から比較するとかなり特異なケースであることはすぐ理解できるし、おそらくそうしたことを問題にする考察することそのものもthinkwork、すなわち人工概念の産出に違いないわけです。これは困った。これってカフカ的な世界における、『石の解体と石の形成の循環、労働そのものに意味がない限りだれも疑問にふす意味などない』、。ですよね…。/T.A
つくり続けることに疑問ももたなければ、その労働は終わらない。すなわちそれは仕事でない。2
about "homo-faber"2 
4,November 2007

この日曜日の昼間に一旦兜町周辺に帰ってきました。街角には人はほとんど見かけません。店舗は土日すべてしまっているようだ。地下鉄に乗るために地下に潜ると驚く程人がいたりします。ひとは地下を移動している。/T.A

その都市の要素について説明するために必要となる文体にはいくつかのやり方がある。例えばマッピング、マスやメッシュ分析、定点観測、それらの表記法が指し示すものを読み解くこと。確かにこれらの手法はマクロベースの動態を調べるのには随分役に立つ方法ではあります。だけどこれらの手法には『都市とはー』について言及する場合はその効用はあまり定かでないのも現実です。早計かもしれませんが大きく外さないアプローチとはたはり『状況』にかかわる思考ということになりそうです。/T.A

『アゴラ』についての諸説を読むと、なるほど建築学上な解釈として不明確な部位はあまりなく、欧州の都市機能を考えるうえでは今でも有効だと感じます。それは上位に形式化されたものだからでしょう。ぼくたちは都市について固定的な解凍を常に得るという欲望に苛まれていて、やもすれば『ことば』がすべて事後的な形式であることを忘れ去って、そのあり方の正しさについて弁明する、喩えるならことばを伝えるもの(使徒)のような役割を当然なものとして採用していないでしょうか。/T.A



こうした大きな間違いは往々にして文脈に取り込まれる事で不可視なものとなります。すなわち盲目であるがゆえに修正せずにここまできたことについても、知る由がないのです。/T.A

first tuesday, Every day in continued Tokyo
東京日常/28,october 2008
ふたつの場所の間。/Between two places 29,october 2008 0:00

ことばと場所とその意味が、時間の層を超えて逐次機能している場所はそうそうないと思いながらそんな場所と人との関係が、あるいはそれが目に見えるかたちで残されているのかどうかについて、こうした相対的な関係がこれまでどう意識されてきたのかの歴史に参照しながらも少なからず興味があります。地理的、地勢的な変化はそこに生きるひとたちにすれば背景としての時間の経過であって少なくとも意識されにくい要素であるように思えてならないのです。/T.Aそれを考えるために幾分時代を遡って、遡りながらも同時期に記述された、同時代の同じ場所の描写をたどることが、それを明らかにする最善の方法ではないでしょうか。近代文学史上において見いだされるそうした場所とはそれなりの地としての理由を常に秘めているに違いないであろうことから、同時代的な描写残っている可能性があるように思えるわけです。
銀座に『出雲橋』という地名が残っています。芸姑屋を残して料亭が築地に集中していた時代、花柳は出先が遠くに置かれていることで地理的に不利益な時代があったようです。今はない『三十間堀』が横たわっていた。それを超える橋の中でも比較的遠い『出雲橋』を渡ったらしい。/T.A
“ 金春と築地を分ける三十間仲をとりもつ出雲橋 “ と歌われたようです。『出雲』なる国は縁結びの国です。そこで木挽橋を通らずに縁起のいい出雲橋を通ったというわけです。

明治42年11月稿、永井荷風の『新橋夜話』の「見果てぬ夢」の記述にこんな場面があります。 芸者との刹那的な出会いの後、出雲橋の手前に立ち、都会の燈火の彼方に田園を垣間見、百里もある空間の差異において別れまいと思う恋人すらも引き離した汽車についての無情を語るという場面。都会の芸者は刹那的な関係に集約され、その背景に物理的な関係に引き割かれる別の関係がある。『出雲橋』がそうした背景として描かれる場所であったことに関して、今のどれくらいのひとたちの記憶に残っているのでしょうか。/T.A
『東京日乗』 TOKYO-NITIJYO
29,october 2008 23:30

溜池山王での呑み会の帰りに新橋で降りて、『小登美さん』と歩いたであろう夜の銀座を「まさに夜」にGPSで確認しながら歩いてみました。55mもあったお堀の痕跡は街区の街割形状に微妙に残されていることが比較的容易に確認できました。『三十間堀』はそもそも『川向こう』という線引きのニュアンスが濃厚です。地理的に考えると歌舞伎座が江戸城から見て、三十間堀川の向こう側にあることがその地政学的な痕跡としての記憶であるように思います。要は芝居小屋と遊郭は同列の悪所として隔離するためのエッジとしてこの『三十間堀』は機能していたようです。/T.A

この「線引き」が暗示する距離感と芸者との関係上の超えることのできない隔絶、そして田舎と都会をめぐる自らの立ち位置をめぐる越境不可能性のジレンマは、どうやらひとつの場所において交錯し、文体においてその数奇を構成しているようです。もちろん表面的にはスタンスをめぐるアナロジーとしてのレイヤーで片付けるのはいとも簡単に思えるわけですが、しかしながらここで明るみになる要素とはむしろ空間の同位的な様相とは全く異なることとして捉えるべきなのではないかと勝手な推論をたてつつ歩いてみたわけです。/T.A

例えば『墨東奇譚』をひいてみます。江戸時代の葛飾までは南北両町奉行所の所管でありながらも僻地であったことから、荒川を越えると魑魅魍魎の異界であったようです。こうした空間的な隔絶は『可能性としての記憶』のあり方が文脈に読み替えられることでリアルな記憶として実際の地図世界に記憶されていくように思えるのです。そういえば断腸亭日乗の『日乗』とは日記のことですから、『東京日常』も『東京日乗』の重ね合わせの意味の格子で支えられていると思うのです。/T.A

曖昧さ、あるいは海 Ambiguity or the sea
31,october 2008 3:000

『見果てぬ夢』にはボードレールの「海」に類似する文脈があります。そのボードレールはノートルダムから見渡したパリの風景を描写したメイヨンの版画に影響を受けた可能性があり、その詩のなかでパリの街を『海』と形容した。戦前から戦後の東京に関していえば比較的家並の揃った俯瞰であったことはほぼ間違いがなく、19世紀のパリの街の俯瞰イメージに少なからず近似していたであろうことはその総体的なイメージとして特段問題にする必要のない範囲かと思います。/T.A

しかしながらこうした個から空間の総体的なイメージを共有できる、もしくは意識可能な状態を欲望した文学的な試みとは別に、手で触れることのできる世界観はまた別に存在していたであろうこともまた事実な訳です。10〜11世紀の出来事を描いた『ファミリー・サガ』では、とりわけゲルマン人の意識をあぶり出す、もしくは更に『個』にいたる意識を特に主題にしながらも、例えば環境における『季節』を描きながら個々のライフイメージを損なわずに語るという点で、すでに非常に興味深い事実がそこにはあります。/T.A

それはヨーロッパにおいて成立した個のイメージのあり方や時間意識の特異性を探る意味では非常に重要な意味をもつであることに異論を挟むまでもないわけですが、問題は「都市を海として表象する」個による俯瞰的な空間意識とそれに伴う個の曖昧化が、必ずしも「個」の体験の全体化や集積によるマスイメージと素朴に一致をしない点に注目すべきなのではないかと思うのです。/T.A

そこに時間に関する意識のあり方が、実は色濃く、しかし間接的に反映されているのではないでしょうか?。/T.A
ビット落ち Bit omission
1,november 2008 5:00


中央区八丁堀3丁目の付近には今も巨大容積の街区に接して、古い街区のブロックがそのままに残されています。もちろん都内にはこんな場所は数限りなくあって、ことさらその景観としての希少さに触れるべくもないわけなのですが、同じ『ビット落ち』の空間でも、『可能性としての記憶』のあり方において、そのひとつひとつは明らかに異なると感じます。例えば建て替えが近年検討されている、青山北町のアパート群などを参照してみれば、誰しもがその痕跡の現れ方の違いにおいていくつかのことにまず気づき、それぞれの街の気配とそれをみるものとの間にオリジナルの関係を結ぶ筈なのです。それは一言で云えば『海』としての抽象イメージである『東京』は、その時、その場とそこに立ちつくすものとの関係の中でしか「みる」ことのできない/T.A

八丁堀3丁目界隈の街区割について少し気になったので、元禄12年(1699)ごろ架橋されたと考えられる『亀島橋』を基軸にその頃の地図に現在のものを重ね合わせてみました。そうするとよくわかるのですが街区割はほぼ変わっていないようです。そうしたことは事実の確認とひとつの情報に過ぎないと常々割と軽視する傾向にあったのですが。不意に街を歩きながら思い出したことのもうひとつの別の事実から、そのひとつ、ひとつの情報が不意に関係する瞬間において、そしてそこでみえたことの某かがもたらしたことについて。/T.A

界隈をぽつぽつ歩きながら以前読んだことのある評論誌の中に書かれたこんな逸話を朧ながら思い出しました。昭和の初期、当時偽名を使い警察から逃れていた左翼活動家でもあった太宰治が、現中央区八丁堀三丁目の材木屋の二階に夫婦で隠れるように棲んでいたという話。ちなみにその前に棲んでいた新富町のアパートでは丹羽文雄もいて、当時朝日新聞に連載が始まった『墨東綺譚』を切り抜いて一緒に読んでいたそうで、そんなことを思い出したことから、図らずもこの東京日常が荷風から始まったことの奇遇を感じていたところなのです。(その後調べてみましたがはっきりとした所在は不明です。材木屋は神谷材木店の二階という説もあり現住所では八丁堀4−11付近だそうです)/T.A保養地と近代
A health-resort and modernization  1,november 2008 23:00ロンドン近郊南方にあるブライトンといえば、イギリスの保養地であることは誰しもが知るところですが、海に面しているために冬でも比較的暖かい、いわゆる典型的な『海岸保養地』です。東京都心から鉄道で1時間程度の場所にある葉山や三浦半島一帯はロケーション・景観などの点から、このブライトンに非常に酷似しているように思います。近代文学と場所の記憶の関わりが基点となって偶然始まった今年の『東京日常』の毎日において、東京都心にすこしずつ失われつつある『近代』の痕跡にについて考えることは明快な歩みであるように思われます。19世紀末から20世紀初頭にかけてこうした郊外に拓かれた場所について視点をむけることはすなわち東京の近代について考えることにつながるのではないかというぼやけた推論をたててみたわけです。/T.A

江戸時代末に横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)が設置され。明治17年の鎮守府設置されたことで明治22年に横須賀線が開通したそうです。逗子という場所が早くから保養地として拓けたのもこの早くからの鉄道網の整備が大きいようですね。この保養地と軍という一見異質なフレームが併置しある意味で共存してきた歴史が気になります。横須賀製鉄所は幕末に小栗忠順の進言により進められたことは有名な話です。その後造船所への改造の最中、幕府が瓦解したことで大政奉還後は明治政府に引き継がれて、紆余曲折後、海軍省の管轄になったことがまず重要な条件としてあると思います。横須賀線が開通したのは1889年(明治22年)です。一方海軍省の管轄になったのは1872年(明治5年)、横須賀鎮守府直轄には1884年(明治17年)。鉄道の敷設が比較的早かったのはこうしたことに符合します。/T.A

横須賀線の敷設と同時に逗子停車場が設置されたことで外国人(欧米人)による保養地化がまず始まりついで政治家、実業家の別荘地となっていくこととなります。徳富蘆花が『不如帰』(ほととぎす)が『国民新聞』に連載され始めたのは1898年(明治31年)11月からだそうです。『不如帰』は文字通り逗子を舞台にした小説であり、しかも夫・武男は海軍の人間です。『不如帰』が売れたことで逗子を訪れるひとが増えたようです。/T.A

逗子からはじまり横須賀、そしてそのちょっと先にペリーの来た浦賀や久里浜があります。保養地はその慣習のある欧米人によって拓かれました。国家間の通商の始まりは米国によって、製鉄技術はフランスに。この関連を併置することで見えてくるものとは決して「欧米化へのシノプシス」なんかではありません。これらは「その仕組みを統一すること」であって、一言で云えば「世界に組み込まれて行く」過程において近代のあり方が形成されたということなのではないでしょうか? 日米の軍事同盟もその「仕組みの統一」のひとつです。ですから米国がイスラム教国の一部と対峙している理由こそはテロの撲滅なんかではなく、異なるシステムをもつ国の駆逐にあることは少し考えればわかることなのです。/T.A

東京から近代の影がいち早く消えるわけこそ、グローバル化の最前線にあるからであって、こうした理由から最初に消えて行くもののひとつが建築だと考えるようになったのは最近のことです。/T.A